
福岡、佐賀両県で最大震度6弱を記録し、1人が死亡、約1200人が重軽傷を負った2005年の福岡沖地震から、20日で15年となる。震源に近く家屋の7割が全半壊した福岡市西区の玄界島は、わずか3年で希望者全員の帰島を遂げた。だが、発生時約700人だった人口は現在約400人に激減。住居を整え短期復興を果たしながら、少子高齢化に歯止めがかからない島の振興をどう図るのか。重い課題が横たわる。
「子どもに『漁師になれ』という家は少なくなった」。福岡市漁協玄界島支所の細江四男美会長(65)は地震後、島の主産業に起きた大きな変化に肩を落とす。
島では、地震から2年後の07年3月に県営住宅が完成。翌年には市営や一戸建て住宅も建ち、帰島の環境は整った。
「住居を再建できたら元の生活に戻れる」。地震後、漁業者たちはそう信じて再び海に出始めた。だが、07年の年間漁獲量は地震前から半減。海水温の変動など海況の変化が原因とみられ、その後も低迷が続いた。
市によると05年の島の漁業者数は150人余りだったが、現在は約100人に減少。60歳以上が6割を占め、これから漁業を支える40歳未満は10人程度にとどまる。自然相手に収入が左右される漁業は、若者の就業を遠ざけた。
不漁を機に、島では収入安定のためにワカメ加工施設や定置網が設けられ、アワビの稚貝放流も実施。10年以上かけ、ようやく落ち込んだ漁獲量が回復してきた。ただ、市水産振興課は「次の世代が継ぎたいと思う新たな展開が必要になっている」。担い手づくりはこれからだ。
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玄界小・中学校の児童生徒数も地震後、大きく減った。市教育委員会によると、地震発生時の05年度は児童30人、生徒17人だったが、08年度は児童18人、生徒8人とほぼ半減。同市中央区のかもめ広場仮設住宅などでの生活を経て、島に戻らないことを選んだ家族が多かった。
「転校生が来てほしい」。小中学校PTA会長の宮川幸大さん(46)は、七夕の短冊に書かれた子どもたちの願い事を知り、ショックを受けると同時に、再生へのヒントを得た。
宮川さんは福岡県宗像市の離島・地島が取り組んでいる小学生の「漁村留学」をモデルに島外から子どもを受け入れる取り組みの研究を始めた。島外の子どもが留学するには宿泊施設を用意する必要がある。将来的に留学生の保護者の移住を視野に入れると、受け入れには島を挙げての組織づくりが不可欠だ。「みんなが危機感を抱いて島の将来を考えて話し合い、動きだすきっかけにしたい」と意気込む。
漁で男性が不在がちな島の防災を担ってきた女性自衛消防隊防火クラブが昨年、若手の減少に伴い解散した。少子高齢化は島の生活にさまざまな面で影を落とす。地震後、島を調査してきた長崎大の高橋和雄名誉教授は「住宅再建を優先した復興が進められ、地域振興は後の課題とされた。若い人が立ち上がり、横のつながりをつくって活性化策を打ち出してほしい」と話す。
(下村佳史)
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March 19, 2020 at 04:00AM
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若手漁師育たず、児童ら半減 福岡沖地震から15年、玄界島はいま - 西日本新聞
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